月刊秘伝2002年6月号

 

総合実戦護身術功朗法

襲撃者の心理 
文:総合実戦護身術功朗法総師範、国際武術文化研究会代表・横山雅始

今日、刃物や銃器による犯罪件数が急上昇している。自らの拳と体−つで全てを解決する、という漢の哲学は違い昔の話となり、もはやそんな美学では緊急事態を回避できなくなった。だが、武器を持つ人間はそれ故に、自信と絶対的勝利という先入観がある。そして ここに、我々が護身をするチャンスがあるのだ。


平和という名の幻想。現代日本の病巣

 黄金の国ジパングの幻想がバブル経済の崩壊と共に消え去った頃、平和国家日本の治安も徐々に悪化しはじめた。そして今日、日本社会は欧米なみの凶悪犯罪化が進みつつある。  

 日本の場合、一般に喧嘩といえば素手の殴り合いや取っ組合いが暗黙の了解であり、喧嘩に武器を使うのは、ごく希なケースで卑怯だと非難を受けた。しかし、喧嘩が素手という考え方は日本以外の国々では殆どなく、外国では洋の東西を問わず身につけた物、周囲 の物を武器として相手を攻撃するのは常套手段である。彼らにとって、武器となる物を使った方が素手より有利で合理的なのは子供でもわかることであり、それをあえて素手で行うのは不合理極まりなく理解できない。  

 ところが日本の場合、素手の格闘に固執するのは法的な問題を考慮してというよりも、むしろ素手で闘う事に男らしさや潔さといったものを見いだす独自の精神文化があるようだ。そこには自らの体を鍛え、道具や武器に頼らず己の拳と体一つで全てを解決する、漠の美学と哲学が内在しているようだ。  

 しかし今日の日本社会はこうした伝統的な漠の美学は全く解せず刃物や銃器による犯罪件数が急上昇している。以前は襲撃者は凶器を出したとしても威しを目的とするケースが多かった。逆らわない、または必死で逃げる、これらの行為を行えば生命の危険を回避 できたわけだ。  

 ところが、昨今は凶器を使用し殺傷を平然と行う犯罪が急増している。したがって、暴漢の要求どおりに行動しても殺傷を受けない保証もなく、場合によっては理由なく突然に凶器で襲われる可能性があるということである。暴漢の目的が金品の強奪のみではなく、殺傷そのものにあることも現代社会の病巣の深刻さを浮き彫りにしている。

 

安心と優越。武器は何をかえるのか  
 武器を手にすることによって一般に、人は自らの戦闘能力が高められたことを自覚し安心感が増す。その武器の能力や熟練度が高ければ高いほど、気分も高揚し優越感さえ生じてくる。容易に勝てるという自信が湧いてくる。そして、殆どの襲撃者がこうした武器を手にしたとき自らが絶対的優位に立っていることを確信して疑わない。さらに彼らはその武器で襲撃し、それが成功するシュミレーションを脳裏に描く場合が多い。例えそれが、冷静さを失い衝動的に武器をとって相手を攻撃するにしても、攻撃を始める直前には僅 かでもシュミレーションを頭に描く。そして、そのシュミレーションに従って攻撃をする。常にこのシュミレーションでは襲撃者が成功を納めるパターンが描かれる。

  例えば腹部を刃物で突く場合の一例をあげると以下のようになる。「刃物を見た相手が驚いて後ろにさがり、逃げようとするのを追いつめて衣服を掴んで刺し、相手は防御できずに刺されてしまう」といった具合だ。したがって精神異常や薬物障害などの特殊な例を除いて、襲撃者は自らの勝利をシュミレーションし確信するからこそ襲撃するのだといいかえることができる。そして、初撃が成功した瞬間、さらに興奮状態が訪れ何度も攻撃を繰り返す場合が多いようだ。

 

過信と現実。 銃は最強なのか

一般的に武器の優劣は有効範囲や威力そして挽作性などで決定される。しかし実際には障害物があったり、足場が悪かったり、突然に相手が飛び出すなど数々の条件が追加されるので、銃を自由に操作できない条件下では素手やナイフに利のある場合もある。  

 私自身、南フランスの射撃協会の栄誉会員であり、一時期は射撃の猛訓練に明け暮れたこともあったが、銃は便利で有効な武器であると確信しても、絶対的に勝利をもたらす魔法のウエボンとは考えていない。私の所属する射撃協会の会長プリオール氏はこう語っ ている。「トリガーを引く瞬間よりも銃を構える時の方が難しい。実際に銃を撃って、その威力と衝撃を味わった者は、最初は危険な道具が手の内にあるという緊張から力んでしまい、グリップを堅く握りしめる。オモチヤの銃や映画のシーンのように簡単に連続してトリガーを引き続けることはできない。そして安定した射撃姿勢をとらないと当たらないので更に体が固くなる」  

 イスラエルで空砲とゴムナイフで面白い検証が行われた。それは銃をホルスターに入れ携帯している警備隊員が、6メートル前方からナイフを持って突進してくる攻撃者に銃を抜いて発射し、制圧するのに要する時間を調べた。何人もの警備隊員で試したが、その答え は出なかった。なぜなら、全員が銃を発射するまでにナイフで刺されてしまったからである。結局、早い人で銃を構え発射するのに1.5秒を要し、遅い人で3秒を要している。この間、攻撃者は少なくとも2回以上ナイフで刺すことができる。ところがこの検証を行うまでは銃を持った警備隊員の誰もが襲撃者を撃てると信じていた。目前まで襲撃者が近づいても銃を堅く握り、銃のみに頼っていたため結局ナイフで刺されてしまったのだ。  銃は万能であり銃口の前では全てのものが無力化されるという既成概念を人は持っているのである。襲撃者もまた同様である。

 

速習即戦の秘訣。 シンプルな技法とは

 一般に複雑で動作数が多く修練に時間のかかる技法は高度であるから、これを熟練すれば非常に有効であると考えられている。しかし、複雑化した技法は覚えるのに時間がかかるだけでなく、咄嗟の場合に反射的に体が反応せず平常時に練習したように技が出てこない。普通の人間が緊迫した状況下で咄嗟に行える動作は、一挙動か二挙動で、数挙動もの動作数のある複雑な技法を咄嗟に使うのは困難である。した複雑な技法を、体が反射的に動くまでやり込むとすれば相当な年数を要する。そこで年数をかけずに、中途半端に覚えても役立たないことから「生兵法は大怪我のもと」ということわざができたのである。ところが、護身の必要性はいつ生じるかわからない。何十年も修行したのちに、やっと護身ができるのでは全く意味をなさない。まさに護身術は速習即戦であることが要求される。そして、理想的にはあらゆる襲撃者を排除できるものでなくてはならない。そこで、高度な技術でありながら、シンプルで習得に時間がかからず、実用的なものが必要になる。  

 単に素朴で原始的という意味のシンプルな技法を短期間で身につけて、危機回避率を少しばかり上げるのは簡単だ。真の意味でシンプルな技法とは高度で複雑な技法を洗練し続け、無駄を省いて簡素化されたものである。  

 功朗法を例にとると護身側が襲撃者のナイフを見て恐怖を覚え両足が硬直して動かない状態でも、腰を斜め後45度に引く体捌きで腹部や胸部への刺突をかわすことができ、同じ体捌きで首や胴への斬りつけも防ぐ事ができる。これらは足を動かす必要のない一挙動の動作であり、人間の防衛本能に立脚した非常に自然な動きである。シンプルな一種類の体捌きを覚えることで各種の攻撃を防御でき、これにより習得時間を短縮できるだけでなく、反射的に体が動くから実用性も高いのだ。  

 修行年数さえ長ければ効果があるという呪縛から解放されなければ、実用的な護身技法は身につかない。

 

視覚の魔術。 間合いのトリック  

 人間を含む動物の個体間距離とは互いの安全を確保できる距離ということである。電線に停まった雀達が均等な間隔を開けているのは、個体間距離の確保を本能的に行っているからである。人間も同様で、通常は他人同士が会話をする距離が個体間距離であり、異常 に接近してくる相手がいれば何らかの思惑があってのことである。

 この個体間距離を確保する方法に、システムブロックという技法を私は考案したが、これによって個体間距離を保ち続けることで危険を回避することができる。また、目の錯覚や先入観を利用し、護身側が襲撃者の個体間距離を破って有利な状況をつくりだす方法を間合いのトリックと呼んでいる。  

 この間合いのトリックは、自分の重心の位置をどこに置くかによって、襲撃者に視覚的な錯覚を与えることが基本である。襲撃者にとっては離れていると思った護身側が一瞬で自分に対して攻撃を加えるというアクシデントに見舞われることになる。

 

攻守一体。 護身は受動ではない

 南フランスで本年3月に功朗法のセミナーを開催した。昨年秋の北フランスでのセミナーには、100名近い空手の有段者が参加し約300名の見学者があったが、南フランスでは少人数のセミナーを行った。しかし参加者はボーソレイユ警察隊代表者で柔術や空 手の有段者や護身術学校の校長、合気道団体の代表者などで構成され、特に警察や護身術学校の代表者は功朗法の合理性と有効性が非常に気に入ったようで今秋に私を再度フランスに招いてくれることとなった。

  南フランス、コートダジュールは世界的なリゾートでカンヌやモナコ公国といった著名な観光地を有している。紺碧の地中海と青い空、ピンクや黄色のキュートな家々が並ぶ丘には、中世期の城塞が今も残っている。一年を通じて温暖で雨が少なく風光明媚なこの 地方は、19世紀に英国人が天使の楽園と名付けただけのことはある。しかし、裕福な人達が集まり観光化が進むと共に治安も悪化した。特に地中海は異種文化を、そして善も悪も、戦争も平和も、全てを飲み込み漂着させてきた。  

 セミナーの後、海岸近くのカフェで、うねりのない紺碧の水平線に静かに沈む太陽を眺めながら、風景には似つかわしくない言葉を思い出した。それは一人のフランス人生徒が好きな言葉として私に言った「花は桜、人は武士道」である。現代日本では死語となって しまった言葉だ。彼らの言う桜や武士道は日本人の言うそれとはニュアンスが違っている。潔く闘い散り際を義とする日本的な美徳ではなく、彼らにとって桜は単に実の象徴であり、 武士道は不屈の精神と強さの象徴のようである。私は欧米的な桜と武士道が好きだ。

  護身術は自分や仲間の生命や財産を守る為の戦闘法であり、決して負けることは許されない。たとえ潔く闘っても敗北は死と損失に繋がるのだ。  

 護身術は受動的で防御と逃走を主眼とするものではなく、能動的に防御と反撃を行うものでなくてはいけない。防御そのものが反撃であり、さらに反撃を行い続けることで、襲撃者の戦闘能力を完全に奪い取ることができる。これによって襲撃者は再度の攻撃を試みる意欲を失う。  

 イスラエル軍式護身術クラブマガの創始者イミ氏は生前、次のように語っている。 「私は自分と自分の愛するものを守るために、相手が倒れるまで闘い続ける」私はこの言葉を秘伝の読者にも贈りたい。